女優の原日出子さんは、いつもにこやかで人懐こい笑顔が心を和ませますが、どんな家庭で育ったのか気になりますね。
そこで今回は、原日出子さんの生い立ちや経歴・実家の兄弟家族、そして、劇団四季は半年で退団って本当なのか調査しました。
原日出子のプロフィール
名前:原日出子(はら ひでこ)
本名:渡辺法子(わたなべ のりこ)
生年月日:1959年11月10日
年齢:62歳
出身地:東京都
身長:156cm
職業:女優・タレント
原日出子さんは、東京都出身の62歳で、本名は渡辺法子さんです。
アルファエージェンシー所属の人気女優であり、タレントです。
芸名の由来
原日出子さんの芸名の由来は、劇団四季の研究生時代に決まったもので、原さんが初出演した映画の『夕焼けのマイウェイ』を制作した『若い根っこの会』会長の加藤日出男さんから名前をもらったそうです。
そして、母親の旧姓の「原」を合わせて、この映画の監督の岡崎明氏が名付けたそうです。
原日出子の主な経歴
原日出子さんは、劇団四季の研究生として女優デビューし、1979年には『夕焼けのマイウェイ』で映画に初出演、主演を務めます。
1980年には、数多くのテレビドラマや、映画のオーディションを受けていたそうです。
そして、1980年のポーラテレビ小説『元気です!』の主役を宮崎美子と争い、敗れはしましたが、ヒロイン役の宮崎美子さんのライバル的な役柄で出演します。
さらに1981年には、NHKの連続テレビ小説『本日も晴天なり』の主演に抜擢されブレイクしたことで人気女優の仲間入りを果たします。
同年には、歌手デビューも果たし、『約束』『青いラプソディー』などの曲を発表することに。
1983年の人気絶頂時に、高校時代の同級生と結婚し、1女をもうけるが1987年に離婚しています。
1994年には、渡辺裕之さんと再婚し、1男1女をもうけるなど、おしどり夫婦としても有名で、2001年に「パートナー・オブ・ザ・イヤー」を受賞しています。
原日出子の生い立ち
実家の両親や兄弟・家族は?
原日出子さんの父親は、不動産会社に勤務していて、母親は看護師だったそうです。
原さんの家庭は、決して裕福と言えるものではなく、カメラさえ買えなかったそうです。
そのため、子供の頃の写真はあまり無いそうです。
また、小さい頃銭湯代として8円を母親にねだった時には、母親が泣きだしてしまったことから、裕福ではないことを知り、その後は物をねだることはしなかったそうです。
原さんの兄弟については、原さんが小学校5年生の時に、7歳上の姉がなくなっています。
そのことについて原さんは次のように語っています。
私が女優の道に進むことを勧めてくれたのが姉でした。姉が亡くなった時、私は小学生だったので現実を理解できませんでした。自分が18歳になった時、人生でこれほど楽しい時期に死んでしまう辛さを痛感しました。
若くして亡くなったお姉さんについて、辛かっただろうとしみじみ考えたのですね。
小学校時代
原日出子さんの出身小学校は、東京都小平市立小平第三小学校です。
原さんは、子供の頃から歌ったり踊ったりすることが大好きな子だったそうです。
その頃は、お芝居には興味がなかったという。
原さんは、毎日暗くなるまで一人で遊んでいるほど元気な子だったようで、生傷も絶えなかったそうです。
さらに、行方不明になることもあり、何度か警察にも保護されたという。
今の原さんからは、想像もできないですね。
中学時代
原さんの出身中学校は、武蔵野市立第四中学校です。
中学時代は剣道部に在籍していたそうで、先輩から誘われて入部しています。
その頃の原さんは気が強く、男勝りだったようで、男子の先輩部員と喧嘩をして退部させてしまったという。
今では考えられないくらい、血気盛んだったのですね。
同校の主な卒業生には、俳優の岸谷五朗さんや、作家の桐野夏生さん、そしてハリセンボンの箕輪はるかさんなどがいます。
高校時代
原日出子さんの出身高校は、東京都立久留米西高校です。
久留米西高校は、東京都東久留米市に所在し、部活動が盛んで、特にサッカー部は都立の強豪校として有名だったそうです。
原さんは、サッカー部のマネージャーを務めていましたが、傍らで演劇部や映画研究部、ギター部にも所属するなど、かなり広範囲に活動されていたようです。
原さんが演技に興味を持ち始めたのは、高校1年生の文化祭で演劇部の人が足りず、部長から依頼され、照明係の手伝いをしたことから「楽しそうだな」と思ったのがきっかけだったそうです。
そして、文化祭で唐十郎の「少女仮面」を上映したところ、他校からの依頼が来るほど反響があったそうです。
これをきっかけとして、演劇部にも出入りするようになったそうです。
専門学校時代
原さんの高校卒業後は、日本工学院専門学校に進学します。
日本工学院専門学校は、ミュージシャンやゲームクリエーター、声優や漫画家を養成する学校です。
高校時代に原さんは、演劇に興味を持ったことから、親には内緒でこの専門学校に入校したそうです。
原日出子は劇団四季を半年で退団って本当?
日本工学院専門学校に入った原さんでしたが、この専門学校では、プロ意識が高い人があまりいなかったそうで、物足りなさを感じていたそうです。
ある時、先生に無理を言って、2年生に混じって劇団四季研究所の試験を受けたところ、1年生の原さんだけが合格したそうです。
この時の劇団四季のオーディションの合格倍率は、500倍だったという。
でも、原さんは劇団四季の舞台をあまり見たことがなかったそうです。
その後原さんは、劇団四季研究所に入るため、専門学校を1年で中退します。
演劇の道に進むと心に決めたのですね。
しかし、劇団四季の研究所に入所した原さんでしたが、歌のテストが1点足りなかったことから、落第してしまったそうです。
その時の様子を原さんは、次のように話しています。
研究所では頻繁にテストがあるのですが、歌を失敗した自覚がなかったので「納得がいかない」と言いに行ったら、「君は四季には向かない。辞めて他で頑張りなさい」と先生に言われました。
このことから、わずか半年で退団することになったのですね。
でも、この経験が逆に反骨精神を生み、多くのオーディションを受けることで、最終的には1981年のNHK朝ドラ「本日も晴天なり」のヒロインに起用されることになったのです。
原日出子の生い立ちまとめ
今回は、原日出子さんの生い立ちや経歴・実家の兄弟家族、そして、劇団四季は半年で退団って本当なのか調査しました。
原日出子さんは、不動産会社に勤務する父親と看護師の母親の下で生まれ育ち、家庭は決して裕福ではなかったようですね。
小さき頃から活発で、いろんなことに興味を持ち、幅広い活動をしていたようですね。
高校時代に演劇の面白さに気がつき、女優の道へ進んでいます。
数々の試練を乗り越えたことから、大女優としての現在があるのですね。